kokorobukuro’s diary

Soul Design 心羽さんのすすめで、自分を知る機会として思いを綴るものです。私以外の方にはなーんにも役に立ちません?悪しからず。

ちょっと、はまってみた。

久しぶりに「はまった。」

他者主導による行動は疲れる!

つくづく、攻撃は最大の防御だな。

こちらは、心の準備が出来ていない。

しかも、腕の怪我も悪化していたと!

あー、どうしよう!!!

 

と、

あたふた、バタバタ、イライラして・・・

そしてふと、自分をかえりみる。

問題?

トラブル?

任務?

ハハハ!やっちゃった!また「はまった」ね🎵

そもそも、これを体感することが人生なのでした!

しかも、こんなの

「仕事」の中のワンシーンの話でしょ?

 

人は自らルールを作り、

そのルールに乗っかって右往左往する。

言わば、これは安全な乗り物

ジェットコースターと同じ。

もっと、この乗り物を楽しんで。

 

かえって、身を乗り出したり暴れたりしたら危険!

その流れに乗っかって。

それは、自分が望んだ事

不安になれば、その想いは不安を招くよ。

そこは委(ゆだ)ねて。

力を抜いて。

安心して。

 

きっと、自分の望んだものを手に入れることが出来る。

 

 

 

 

100万円もらったらさー

子供の頃によくやった(?)

「100万円もらったらどうする?」

って、想像ごっこ

 

ふと、今もこの「想像」やってるな~と。

 

で、思うのは、その想像、出来るじゃん。

 

大人になったからと言う訳ではなくて、

勝手に「出来ない」と言い訳して、

可能性を制限しているだけでは?

 

その想像のほとんどが、

「そのうち」

「いつか」やろうとしている。

 

その「いつか」って何時?

「そのうち」って?

 

ほら、なんだか見えて来たんじゃない?

ぐるっとまわって・・・

今さらだけど、

リチャード・カールソンの著書

「小さいことにくよくよするな!」

を読み返している。

その横には、

B・スイートランドの著書

「私は出来る!」黄金の法則

が常に置いてある。

 

ふりかえってみると、メッセージは

ここら辺から強くなってきた。

たまたま立ち寄った古本やさん。

 

調度、仕事も多忙(と、思っていた。)な時期

その頃は、選択肢がなかった。

自分は忙しくて、

時間がなくて、

努力しているつもりで。

 

今思えば、なんとも恥ずかしい。

常に自己主張ばかりだった。

一人でじたばたしてた。

 

アドラーや、D・カーネギーが、

経験と知識と臨床で多くの方法を言葉で残してくれたように、

その他の人たちも、それぞれの経験をもって沢山の言葉にしてくれた。

 

残念ながら、「言葉」に変換された瞬間に、

それは、元とは違うものになってしまうのだけれど、

多くの方々の著書や、言葉に触れ

その輪郭はだんだんとわかってきた。

 

この世の中の法則はひとつだけだ。

 

あまりにもシンプルで怪しいのだけれど、

今ならそれが理解出来る。

 

この世の中に、不安はない。

源はひとつ。

今、僕は体験をしている。

目的は、「幸せ」になること。

時間には、過去も、未来もない。

人がそのように感じているだけ。

過去は記憶

未来は想像

そんなことに「今」を費やしている。

 

全ては思いのまま。

人は不安を掻き消すように、いろんなモノを創造する。

 

バックレるわけではないんだよ。

ただ、恐れることは何もない。

今、穏やかでいる選択

その思いが、「幸せ」となるだけ。

不安な想いは、不安の「願い」となって、

具現化する。

 

その不安は、自分で創造したもの。

「今」穏やかでいるだけで良い。

 

そう、皆が教えてくれた。

 

いらないもの。

沢山のモノや価値に囲まれて、

凄くワクワクするし、

ありがたいと思うんだけど、

その反面、

「みんな要らない。」

とも思う。

 

それは、「安心」してきたから。

無くても大丈夫だから。

知らなくても大丈夫だから。

 

でも、そんな心持ちに至ったのは、

これら多くの価値観やモノに出会えたからでもあって、

このプロセスは必要不回避

 

あわてることはないけれど、

少しずつ手放していこう。

 

手放せば、新たなモノを得られるし、

手放しても安心でいられることを知ったから。

ルール


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「ルール」

最近ぼく的には

必要のないものだと思い始めた。

(競技やゲームは別ね。)

 

だって、ルールは価値観の異なる大勢を

律するためのシステムだから。

もっと言えば、「約束」すらも必要ない。

 

なぜなら、約束は疑いから派生したものだから。

そこに「信頼」があれば、約束は要らない。

 

けれども、

多くの人は「裏切られた」経験と、

自身の甘え(自分も裏切るかも知れない、約束を守れないかも知れない。)から、

第三者の「ルール」に縛られることを知らずして求めている。

 

そして、事あるごとに新たなルールを作り

自らの可能性をどんどん制限して行く。

 

その可能性とは「信頼」

他者を信じること。

 

本来、我々のためにあるとされる

法律や規則、規律やモラルが、

この世の中をどんどん生きづらくしている。

 

信頼もしくは、愛があるならば、

人は「ルール」など作る必要はない。

たのしいこと、すてきなもの。

ふと周りを見渡せば、

たのしいことや、すてきなものが沢山あって、

そのすべてを経験したり、

そのすべてを手に入れたいと思うのだけれど、僕には限界があって。

 

でも、他の人たちが僕の代わりに

沢山のそれらを経験したり、

育んだり、

創造したりしてくれていて。

 

それだけでなく、

楽しくないことや、辛い出来事も

僕以外の人たちが沢山経験してくれていて。

それを思うと、

心に不安の影が降りるのだけれど、

そんなときも、僕はほぼ100%幸せで。

 

それらの不安や、ワクワクや、ドキドキは

自ら作り出すことは出来なくて、

常に僕以外の誰かが提供してくれている。

 

これからタヒぬまで、

あといくつのたのしいことや、

すてきなものに出会えるだろう?

どんな辛いことがあるのだろう?

楽しみだな、

耐えられるかな?

 

金木犀の香りがする。

 

 

 

 

 

 

 

しわわせ・・・

「しあわせ。」ではなくて、「しわわせ。」

 

毛布が暖かくて、

お休みをもらえて、

求めると、そこに既にあって。

求めるものは、物欲ではなく、

「しわわせ」であり、日常であり、

満たすために、問題(満たされない)があり、

制限され、

クリアーして。

複雑なのに、シンプルで、奇跡的で。

ふと気付くとしわわせに満たされていて。

 

近づくと遠ざかり、

離すと、近づいてくるような・・・

 

なぜだ?

しわわせしかない。